Sunday, December 30, 2007

もちつきフェスティバル











































今日(12月30日)は女房の実家の恒例のもちつき。
参加者は両親(舅、姑)、女房の兄弟それぞれの家族で計15人。
女房と義理の妹たちは、もち米を蒸したり(ついている途中の)もちを返す役目。
男たちはつき役。(年頃の)娘と姪はおしきでもちを伸ばす。
そして小学生低学年の甥たちは一人前のつもりでもお邪魔虫。
このように一族総出のもちつきフェスティバルなのだ。

ついた餅米は一斗八升。
今時、昔ながらの(古色蒼然とした)餅つきは珍しい。

Labels:

Saturday, December 22, 2007

貞奴の恋
















川上貞奴。日本で最初の近代女優といわれている。
明治の初期、夫音二郎と共に一座を率い、ヨーロッパ、アメリカの興行で大成功をおさめた。

ここまではよく知られた話だが、後半生、日本の産業振興を陰で支えた人物だったことはあまり知られていない。

貞奴は、40歳で、夫と死別した後、大正9年に名古屋市二葉町に和洋折衷の豪邸を建てた。
愛人、福沢桃介と過ごした家である。http://www.futabakan.city.nagoya.jp/

福沢は、日本の電力王と呼ばれ、木曽川の電力開発に人生をかけた人物である。
木曽川のダム建設現場にそう遠くない名古屋に貞奴と暮らし、電力事業を指揮した。

こう記すと、貞奴は福沢のただの愛妾のようだが、事情は大きく異なるのです。
この建物(二葉館)は、貞奴が自力で建てたものであるし、貞奴自身、桃介から生活面で援助は受けていない。

二人のつながりは、貞奴が芸妓だったころ、野犬に襲われたのを慶応義塾の塾生、桃介が助けたのが縁である。その時二人には淡い恋心が芽生えたと言われている。
しかしその後、貞奴は音二郎と出会い演劇の道へ、桃介は、義塾の塾長福沢諭吉の婿養子になり、実業界へ。
出会いの後、二人はそれぞれ全く別の世界に進みながらも、時を経て再会し、その後の半生を共にするのです。

桃介の電源開発は、困難を極めました。土木技術が未熟な時代、大河木曽川にダムを築く。ひとつ間違えば、破産の憂き目になりかねない事態だったという。http://www.mlit.go.jp/accountability/pickup/legend/momosuke.html

貞奴は、桃介の身の回りの世話だけでなく、現場にも同行したり、事業の成功を日々神仏に祈願したという。桃介も貞奴の助けがあって事業に専心できたといわれています。
(後年、貞奴はダム建設現場近くの岐阜県鵜沼に私財で寺院(貞照寺)を建てた。そこの彫刻壁画にはダム建設成就を不動明王に祈る貞奴の姿が彫られている。http://www.inuyama-naritasan.or.jp/teisyouji/hekiga2.html

近代産業の基礎は電力にあります。電源開発がなければ、日本の近代化はありえませんでした。
芸能生活の華かな面だけが人々に記憶されていますが、電源開発の陰の功労者としての川上貞奴の後半生も、女優生活に劣らず、すばらしいものだったのです。

(11月名古屋にて)

Labels:

Friday, December 21, 2007

草の根民主主義




民主主義。
先進国では当たり前の政治制度となっていますが、本場米国の民主主義をみて、日本のそれとの違いに大きなショックを受けたのでした。

民主主義の原点は、直接であれあれ間接であれ、政策決定に国民(市民)が参加すること。
民主主義が発展するためには、選挙制度から任意の市民の意見を聞く会まで、この参加システムのあり方が大きく影響してきます。

アラバマ州バーミングハム市は、民主主義の本場、米国の中でも3本の指に入る市民参加システムをもった自治体なのです。
この市民参加システムは、自然にできたものではありません。そこには、この街の歴史、1960年代の公民権運動で街を二分した白人と黒人の争いが背景にあったのです。http://blogs.yahoo.co.jp/buryou2925/archive/2007/11/

激しい闘争の後、民心のすさんでしまった街を建て直そうと始まったのが市民参加のまちづくり。人種の壁をこえてみんなで新しい街を作る。和解のためのまちづくり制度「シチズン パティシペーション citizen participation 」(1974年制定)なのでした。
http://translate.google.com/translate?hl=ja&sl=en&u=http://www.cpn.org/topics/community/birmingham.html&sa=X&oi=translate&resnum=2&ct=result&prev=/search%3Fq%3Dcitizen%2Bparticipation%2B%2Bbirmingham%26hl%3Dja%26sa%3DX

町内会(10~20世帯、95地区)→コミュニティー(学区の単位、22箇所)→コミュニティー諮問委員会(市全体)。
この3段階からなる市政への参加システムがバーミングハム市の特色です。
そして、公平さと透明性を保つため、全ての地域団体に、役員の選挙選出と月1,2回、地域の問題を話し合う会合が義務づけられているのです。

(各住民団体の役目は、暮らしやすい街をつくること。そのためには、ゴミ処理や住民福祉のことなど地域の問題を解決しなければなりません。)

このため、まず最小単位の町内会で話し合い、そこで解決できない問題は上部のコミュニティーへ上げ議論される。
そしてコミュニティーで問題解決が図られ、そこでも処理できない問題がコミュニティー諮問委員会に上申される。
最後にそれでも解決できない問題だけが市議会にかけられる。
という仕組みになっているのです。

関係者が参加して段階的に問題解決を行う。
基本は、身の回りの問題は住民自らが解決するという、自助自立のシステムなのでした。
そこには、西部劇に見られるように、何も無いところから国民が国を作ってきた建国の精神を見ることができたのです。

人口24万人の都市で、市会議員はたったの9人。(日本の同規模の都市なら30~40人)
コミュニティーとそれを支える市民参加がしっかりしているので9人の議員で充分なのです。
そして市議会議員は(市民の御用聞きではなく)政策立案に専念する。そのため政策秘書を公費で雇っているのです。
(ちなみに議員自身はは無報酬なのです。)

(日本のように)支持者からたのまれ利益誘導の口利きをする議員はいないのかと尋ねたたところ、「シチズン パティシペーション」の制度ができて以来、議員は口利きをする必要がなくなったし、そんなことをしたら当選できないという返事が返ってきました。

草の根民主主義というのでしょう。試行錯誤を重ね、時には血を流しても問題を解決してきた、民主主義の歴史がそこにはあったのです。

写真上:アーリントン市長、議長、スコッティー市長補佐官と議場で撮った記念写真
写真下:毎週火曜日に開催される市議会風景。

この日の議題は、街の治安向上について。公聴陳述人として麻薬犯罪経験者が陳述していた。(日本地方議会ではまず考えれないのです)

(97 姉妹都市バーミングハム訪問記)

Labels:

Sunday, December 16, 2007

ひ○ち学への招待



12月15日、「ひ○ち学への招待」と称するシンポジウムが茨城○○スト教大学で行われた。
http://www.ibaraki-np.co.jp/shicyoson/03.htm


同大学文学部のM教授の発案である。
M先生の専門は民俗学。生活者の目線から社会を分析している。

先生とは、4年前に市の中期総合計画を作る際、委員をお願いした時からの知り合いである。
その時、「ひ○ち学」の構想を聞かされた。


「ひ○ち学」とは、地元学のことである。
日○市は、日○鉱山とこれを母体に発祥した日○製作所の発展で都市が作られた。
この都市の発展過程のなかに、鉱工業の発達による日本の近代化の様々な要素が見出せるのである。


鉱山の煙害とこの解決過程でみられる企業の社会的責任のとり方。
企業の福利厚生から始まった医療や住宅などの公共サービス。
そして、社員のクラブ活動が原点の文化行政。
・・・・・・


このようにこの街の歴史は、多数の研究者により、様々な調査がおこなわれ、そして発表されてきた。
そしてこれら個々の研究を体系的に整理し、学問として発展させようというのが「ひ○ち学」なのである。


「地元学」の発祥地は、熊本県水俣市である。
昭和40年代、代水俣病が社会問題となった時、全国から研究者が水俣にやってきた。
医療関係者だけではない。社会学や政治学の研究者も参加し、なぜこの地でかくも悲惨な病気が発生したのか、多方面から調査研究がおこなわれた。

そして、研究者たちが去ったあと、住民たちは、自分たちの街の成り立ちを(本当に)知らなければ、街の再生はないと気付き、そこから始まったのが「地元学」である。
「ひ○ち学」もその狙いは、水俣市同様、街の再生である。
全国の地方都市が疲弊している。
経済のグローバリズムが最たる理由であるが、その他には明治以降の中央集権体制が原因にあげられる。

地方に権限を与えなかったことで、戦後60年を過ぎても住民の自治意識は育っていない。
自治意識がなければ「自立心」は生まれない。


地元学は、街のもろもろを学ぶことで自治意識を目覚めさせることを目的にしている。
同大学では21年度から正式に「ひ○ち学」を講座としてスタートさせるという。

このシンポジウムは、プロローグである。
これからが本番なのだ。

Labels:

Monday, December 10, 2007

悲しき夕張鹿鳴館

誰が名づけたのか、夕張鹿鳴館。
本当の名は、「北炭」鹿の谷倶楽部。元は北海道炭鉱汽船(株)の保養施設であった。

炭鉱が盛況だった、1960年代までは、盛んに得意先の接待や幹部の保養、宿泊に使われていた。
昭和29年には昭和天皇の行幸の宿泊に使われたり、他の皇族にも利用されたという。http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/3992.html








鹿鳴館。言い得て妙である。
本家は、不平等条約を改正するため、外国要人の接待用に明治新政府が作った洋館である。それは政治家、貴族、華族の社交の場でもあった。

夕張鹿鳴館も、本家のそれと同じである。炭鉱の労働者や一般市民には縁のない世界だった。

贅を限りを尽くした数奇屋建築である。その中には豪華な調度品で飾られた和風、洋風の部屋が多数ある。
宴会を行ったという大広間に飾られた写真には、繁栄に酔い呆けた北炭幹部社員の姿が残されていた。








昭和57年、国のエネルギー政策の転換で北炭は事実上倒産状態となり、この建物も閉鎖されてしまった。
それを(なんと)後年夕張市が買い取ったという。

希少価値のある建築である。保存し、広く公開するのは意味のあることでしょう。
問題は、夕張市が(多額の税金で)買い取ったということなのです。

夕張市が北炭から買い取ったのは、この建物だけではなかったのです。
炭鉱の社宅も、会社の病院も。
そしてこれらは市営住宅、市立病院に変わったわけですが、この時の買取費用とその運営費が、後々夕張市の財政破綻の原因となっていくのです。

(8月下旬、夕張の旅より)

Labels:

Saturday, December 08, 2007

ステンドグラス@明治村

聖ザビエル天主堂。


ザビエルが布教していたことのある京都に明治23年に建てられたカトリック教会である。


今は犬山市の明治村に移築され公開されている。



美しいステンドグラスが特色の建物というふれこみだが・・・・。

行った日は、天気もよくガラスと通した光が窓から差し込んでいた。



確かにきれい。






七色の光が、祭壇の聖人像や礼拝席に映り、さながら劇場照明のようだった。
















しかし・・・何かが違う。

ヨーロッパの教会ではステンドグラスから差し込む光が、室内を彩ることは無かった。
透過光が明るすぎるのである。重厚感が感じられないのだ。
調べてみると、ここのステンドグラスは、色ガラスに着色したものであるとの事。

これをステンドグラスと呼ぶのかどうかは知らないが、違和感の訳はわかった。
きっと明治村に移築された時、改修されたのだろう。

この教会は、観光施設である。営業の一環で結婚式も行っているという。
ステンドグラス(?)の光も演出上必要なのだ。

長い歴史を持つ本場の教会建築と比べるのは、酷というものだろう。
ステンドグラスの真偽はさておき、野暮なことはいわずに雰囲気を楽しめばよいのだ。

Labels:

Thursday, December 06, 2007

ステンドグラス@シャルトル

モンパルナス駅から西へ約1時間。SNCF(フランス国鉄)の快適なシートに揺られてゆくと、草原のかなたに、二つの鋭塔(シャルトル大聖堂)が見えてくる。








駅を降りるとすぐ近くに聖堂がそびえたっている。これなら道に迷うことは無ない。塔に向かって進むと5分ほどでたどり着いた。








大聖堂の正式な名前は、「ノートルダム」。パリのそれと同じ名であり「聖なる貴婦人」聖母マリアを祀ってあるのだ。








聖堂の中では、シャルトルブルーと呼ばれる深い青色のステンドグラスが必見である。










その深淵何な色合いは、現在の技術でも再現できないという。








よく知られているように教会のステンドグラスは、文字の読めない信徒に聖書の内容を理解させるために作られたという。

イエスとマリア、12使徒、旧約、新約の様々な逸話・・・。いたるところに神の物語がはめ込まれている。
聖書の物語だけではないようだ。パン屋や石工など庶民の暮らしも出てくる。それぞれに意味があるのだろう。







時間が許せば、一つひとつ絵解きをしてみたくなったのだ。

双眼鏡を持ってこなかったことがことのほか悔やまれた。
高い位置のガラスの文様は肉眼ではわからないのです。

それにしても昔の人は、眼が良かったのですね。
変なところに感心してしまったのでした。

Labels:

Wednesday, December 05, 2007

ステンドグラス@シテ島

「ノートルダム」の前に「サントチャペル」に行くなかれ。
そんなことが旅の通の中では言われているらしい。

フランスの3大ステンドグラスというと「サントチャペル寺院」「ノートルダム寺院(パリ)」そして「シャルトル大聖堂(これも正式にはノートルダム寺院という)」のことだという。

最初の二つは、パリのシテ島にある。冒頭の格言(?)は行ってみて納得である。

サントチャペル聖堂は、1249年、ルイ9世によって作られたという。














ゴシック様式の教会建築にステンドグラスの窓はつき物だが、それでもステンドグラスは壁の一部である。

しかし、サントチャペルはその逆なのである。

大げさに言うと窓の中に壁があるというほどのステンドグラスの大きさである。





言い換えれば建物の壁全体がステンドグラスといってもいいだろう。











光が窓から差し込んだ時の教会内部の美しさは、例えるならば宝石の小箱である。
















この教会のステンドグラスを見てしまったならば、かの有名なノートルダムの薔薇窓も色あせて見える。


この教会は、ルイ9世の私的な教会として作られたという。

そして、現在はフランス共和国司法省(最高裁判所)の敷地の一部になっている。

日常使われている裁判所とステンドグラスの美、不似合いな取り合わせとも思えるが、この教会の美しさには、(裁判所という)世俗を裁く権威の象徴としてその存在意義があるのかもしれない。

Labels:

Saturday, December 01, 2007

陰影礼賛

本来人間は、闇を好まない。
元々人間は弱い動物である。外敵から身を守るため明るさを求めた。
明るければ、緊急不測の時、周りの状況がわかり、対応ができるからだ。

谷崎の「陰影礼賛」ではないが、陰影には「憂い」とか「情感」が宿る。
明るさは、人間のもつ原始的な欲求であるが、一方陰影は、心情の機微を知った「大人の文化」なのである。
闇と紙一重の世界を楽しむことができるのは、闇と対峙できる自立した心が必要なのだ。

東松家住宅  塗屋造り 明治34年築
(明治村にて)
茶室(3階) 
吹抜けを通じて差し込む光
 
東松家外観

Labels: