Monday, December 10, 2007

悲しき夕張鹿鳴館

誰が名づけたのか、夕張鹿鳴館。
本当の名は、「北炭」鹿の谷倶楽部。元は北海道炭鉱汽船(株)の保養施設であった。

炭鉱が盛況だった、1960年代までは、盛んに得意先の接待や幹部の保養、宿泊に使われていた。
昭和29年には昭和天皇の行幸の宿泊に使われたり、他の皇族にも利用されたという。http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/3992.html








鹿鳴館。言い得て妙である。
本家は、不平等条約を改正するため、外国要人の接待用に明治新政府が作った洋館である。それは政治家、貴族、華族の社交の場でもあった。

夕張鹿鳴館も、本家のそれと同じである。炭鉱の労働者や一般市民には縁のない世界だった。

贅を限りを尽くした数奇屋建築である。その中には豪華な調度品で飾られた和風、洋風の部屋が多数ある。
宴会を行ったという大広間に飾られた写真には、繁栄に酔い呆けた北炭幹部社員の姿が残されていた。








昭和57年、国のエネルギー政策の転換で北炭は事実上倒産状態となり、この建物も閉鎖されてしまった。
それを(なんと)後年夕張市が買い取ったという。

希少価値のある建築である。保存し、広く公開するのは意味のあることでしょう。
問題は、夕張市が(多額の税金で)買い取ったということなのです。

夕張市が北炭から買い取ったのは、この建物だけではなかったのです。
炭鉱の社宅も、会社の病院も。
そしてこれらは市営住宅、市立病院に変わったわけですが、この時の買取費用とその運営費が、後々夕張市の財政破綻の原因となっていくのです。

(8月下旬、夕張の旅より)

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