Tuesday, October 30, 2007

天使と悪魔

秋の夜長、 「ダ・ビンチコード」の前作、ダン・ブラウンの「天使と悪魔」を読んでみた。
これも「ダ・ビンチコード」同様(あるいはそれ以上)に面白い。

ハードカバーで上下刊あわせて700ページになる長編だが、2晩で読み終えてしまった。

あらすじは以下の通り。(wikipediaより抜粋)

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ハーバード大学のロバート・ラングドン教授は、ある日セルンの所長、マクシミリアン・コーラーからとある紋章についての説明を求められる。同研究所の科学者、レオナルド・ヴェトラが何者かによって殺害された際、その紋章が彼の胸に焼印として押されていたからである。レオナルドは最近、核エネルギーを凌駕する反物質の精製に成功しており、その反物質も犯人によって盗まれていたことが判明する。

ラングドンはその紋章を、伝説的な秘密結社・イルミナティのものと断定するが、犯人と結びつけることには躊躇していた。彼は手がかりを求め、殺害されたレオナルドの娘、ヴィットリア・ヴェトラとともにローマへと向かう。

一方ローマでは、新しい教皇を選出するコンクラーベの真っ最中であった。にもかかわらず、新教皇の有力候補(プレフェリーティ)の4人が揃って失踪していることに、コンクラーベ進行役の枢機卿であるモルターティは苛立ちを覚える。さらに、離れた場所では、ヴァチカンの警護を任されたスイス衛兵隊隊長、オリヴェッティのもとに監視カメラから奇妙な映像が映し出されていた。

そんな中、前教皇の侍従、カルロ・ヴェントレスカのもとにイルミナティを名乗る者から突然の電話が鳴る。かつて科学者を弾圧したキリスト教会に復讐するため、1時間に1人ずつ、拉致した新教皇候補を殺害してゆくという。
殺害が行われる場所のヒントに気付いたラングドンは、殺害を阻止し、盗まれた反物質を発見すべく推理と追跡を開始する。

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「ダ・ビンチコード」と同じくロバート・ラングドン(ハーバード大学教授・宗教象徴学)の活躍するサスペンス小説である。

作品の書き出しも「ダ・ビンチコード」と似ているのだ。

いきなり自宅にかかってきた電話で叩き起こされ、訳もわからないまま事件に巻き込まれていく。

わずか24時間の間に様々な出来事が息もつかせないタッチで展開し、そして最後には意外などんでん返しが待っている。

テーマは「科学と宗教」。

「ダ・ビンチコード」がイエス(の末裔)を題材にしていたようにこの小説もキリスト教文化に正面から挑んでいる。

セルン(欧州原子核研究機構)、反物質などの科学知識、イルミナティー、フリーメイソンといった秘密結社の歴史、ローマ教皇を選出するコンクラーベに見られるバチカンの真実・・・・・

理解するのに大変な事柄なのだが、巧みなストーリー展開の中でこれらが自然に学べてしまうのだ。
それも作者の詳細な事前調査があるからだという。

この小説も「ダ・ビンチコード」同様、映画化されるという。
主演は「ダ・ビンチ・・・」同様、トム・ハンクス。
既に撮影に入っていて、公開されるのは来年夏。今から楽しみなのだ。

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Friday, October 19, 2007

事情聴取

元の部下の起こした犯罪で警察の事情聴取を受けた。

その不祥事の概要は以下の通り。


発覚してから公表するまでの1ヶ月間は、(通常の仕事をしながら)秘密裏に内偵、上司への報告。
公表してからは、市民からの非難電話への対応、窓口応対、議会説明、再発防止策取りまとめに追われ、心身ともに疲弊してしまった。

そして、8月末には関係者の処分。私は直属の上司として書類審査不備、監督責任を取らされ、減俸1/10、3ヶ月、ボーナス勤勉手当2割カット、昇給2年間停止の厳しい懲戒処分を受けた。

事件発覚から約4ヶ月を過ぎ、体調も戻り、気持ちの整理もつきつつある。

今回の不祥事については、言い分はあるが、弁明しても誤解されるだけなので自重している。

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とはいっても、まだ終わった訳ではないのです。

先日、所轄の警察署から事情聴取の呼び出しを受け、緊張して出頭(?)。

被疑者ではなく(もちろん)参考人なので、丁重な取り扱いだったのですが、午前2時間、午後2時間と長時間の聴取を受けたのです。

聞かれた内容は、すでに警察へ提出してある書類の確認であり、心配していた(机を叩かれて)追及されるようなことはありませんでした。(苦笑)

参考人とはいえ、事件で警察の事情聴取を受けることなど、普通の暮らしをしていれば、まず遭遇することはないはず。

という意味では貴重な体験でした。
ついてはその時の思い出を紹介しましょう。


聴取室には窓がない。

4畳ほどの小部屋で完全な密室。

被疑者の取り調べもこの部屋でおこなわれるのでしょう。

犯人が逃亡するのを防ぐため窓がないそうな。

閉鎖された空間で、閉所恐怖症でなくとも長居はつらいところです。

飲み物は一杯のお茶だけ。

午前、午後、聴取の始めにお茶が出されるのですが、それだけ。
コーヒーや茶菓子を望んではいません。緊張でのどが渇いていたのでもう少し飲み物が欲しかったのですが、とても言い出せる雰囲気ではありませんでした。

昼にカツ丼は出なかった。(笑)

普段は弁当持参なのですが、この日は警察で昼飯が出るものと思い手ぶらで出勤。
ところが、午前11時30分になると
「お忙しいでしょうから一度職場に戻られ、午後またお話を聞かせてください・・・」
と言われ、体よく追い返されてしまった。
刑事ドラマに出てくる「カツ丼」ははかなく消えたのです。
以上。

もうこんな事件には係りたくない!

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Sunday, October 14, 2007

ウォーキング

これも8月下旬に札幌で撮った写真です。

札幌芸術の森。札幌市の施設で郊外にあります。
美術館もなかなかのものですが、特色は野外彫刻展示。
これはその中の一つ。




中国の彫刻家 田金鐸氏 の作品「走行世界」




単純化された(歩く)姿がダイナミックな躍動感とたくましい精神力を表現している。



(話は変わりますが)下の写真は、私のウォーキングコース。
ダイエットのため努めて歩くようにしているのです。

山のコース、海のコース、港のコースがあり、自宅を起点に4~6Kmを1~1.5時間かけて歩いています。
(風神山のコース)







(水木~河原子海岸コース)
(日立港コース)
(追伸)
張り切りすぎて腰を痛めてしまいました。
上の彫刻のような格好で歩いていたのです。
何事もほどほどに。

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Saturday, October 13, 2007

夕張キネマ街道

8月下旬に夕張へ行ったときの写真です。

夕張キネマ街道。シネマではなくキネマ。
昔は映画のことをキネマと言っていた。

メインストリートには往年の名画の手書き看板がいたるところに掲げられている。
これは、夕張(国際ファンタスティック)映画祭の一環で作られたものである。

炭鉱が盛況だった頃、市内には16もの映画館があったと言う。

1990年、(かつて映画少年だった)当時の市長が発案し、始めた国際映画祭。
若手監督の登竜の場にもなり、一定の評価を受けていた。
最盛期には入場者も2万7千人を越え、国内でも有数の映画祭に育っていた。

(よく知られているように)夕張市が財政破綻し、この映画祭も平成17年度から中止となった。
(今は規模を縮小し、NPO団体が何とか映画祭を続けている。)

この映画祭の費用は、毎年1億円かかったという。
一方、入場者収入は500万円ほどで、その差はほとんど夕張市が負担していた。

炭鉱の街から観光の街へ。
果敢に産業構造の変革に挑戦した。

しかし果敢は無謀と紙一重である。
個人の問題であれば、果敢も良いだろう。だが市の政策に無謀は許されない。
為政者に問われる資質の一つに、マネージメント能力がある。(あまりに当たり前のことだが)
財政赤字を(隠蔽し)拡大していった市長と市議会の責任はあまりにも大きい。
そこに見えるのは、
市長、議会は(いずれ)道や国が何とかしてくれるだろう。
市民は、市に任せておけば大丈夫(?)という、当事者意識の無さである。

行き着くところまでいって、やっと事の深刻さに気がつく。
これといった産業も無い人口1万2千人の町で、負債総額542億円(何と市民1人当たり450万円!)。
今後18年間の再建計画(赤字解消額は353億円)。
増える住民の負担。
これも人口が減り、産業が廃れれば実現不可能だという。

市が作った、公共施設や観光施設だけが立派で、粗末な民間住宅との差は悲しいほどである。
(写真 半ば休業状態の遊園地)

寂れた商店に掲げられた名画の手書き看板。かつては夢を見せてくれた映画も、夢に人偏を付ければ「儚」(はかない)。

人・ひと・ヒト・・・
有能で見識ある人材を育て、活用する仕組みができなければ、街も国も廃れるのだ。 

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Monday, October 08, 2007

体験的実証考古学

平沢区画整理組合理事長の椎名さんのお誘いで、宿泊施設ビスターリ里美に一泊した。
椎名さんは、ビスターリの役員もしている。
(ビスターリ里美のことは拙ブログのhttp://tosiseibi.blogspot.com/search?q=%E3%83%93%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%81%95%E3%81%A8%E3%81%BFを見てください)

表向き、区画整理組合の諸問題について泊りがけで話し合おうということだが、本音は夜を徹して飲もうというだけのこと。
椎名さんが敷地内に再現したという縄文竪穴式住居も是非訪ねたかったので、ウキウキ気分で出かけた。

この竪穴式住居は、2代目である。(初代は子供の不注意で焼失)
ビスターリにやってくる子供たちに古代体験をさせるために、(子供たちも参加させて)作ったという。
自身の設計施工なのだそうだが、凝り性なのでいい加減なつくりではない。
4本の柱を土に建て、梁と棟木を渡し、垂木の周りを茅で葺く。三内丸山遺跡をつぶさに観察し、忠実に再現したのだそうだ。
ちなみに竪穴式住居というと縄文時代を考えてしまうが、庶民は平安時代まで竪穴の中でで暮らしていたという。
椎名さん曰く。自ら作り、使うことで古代人の暮らしが実証的に理解できる。

なぜ竪穴なのか?
穴を掘り、床を下げることで、冬は地温で温まり、夏は涼しいという。地熱冷暖房なのだ。

炉で魚を焼くということは?
限られた熱源なので最小限の(必要なだけの)魚しか焼かない。つまり、食料資源を無駄にしない暮らしをしていた。・・・・

いろいろ縄文人の暮らしの知恵に気付くという。
体験して皮膚感覚で理解する。つまり実証考古学なのだ。
とはいえ、今回は樽でビールを持ち込み、4人で10リッターを飲み干し+焼酎1本とワイン1本も開けた。。
酒の肴はいわしとさんま。これを炉で焼きながら、木の枝で即席に作った箸で食する。
夕方から飲み始めて終わったのが何と午前2時。
そのまま炉の脇で寝るのが本当の実証考古学なのだが、火事になり焼死したら、実証した意味もなくなるので今回は遠慮して本館に泊まる。
翌日は、ひどい二日酔いで情けない思いをしたが(これは何度も実証済みなのだ)貴重な体験でした。

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ウィークエンドファーム9、10月

夏野菜の最後の収穫をした。

今年は残暑が続いたので、最近まで実を付けていた。
酷暑だったので、これから収穫するサツマイモやサトイモも豊作のようだ。








夏野菜の棚の片付けをすれば、秋冬野菜の種を蒔く時期である。

9月初めには、大根やカブを、10月初旬にはチンゲン菜、小松菜など菜っ葉の類を播種する。

正月には食べ頃になるだろう。

寒さのなかでじっくりと育つ野菜には、温室栽培では分からない本来の味がある。

今日は大根の葉の間引きをした。今夜の味噌汁の具にしよう。

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Friday, October 05, 2007

善き人のためのソナタ

ベルリンの壁の崩壊数年前、密告社会だった旧東ドイツを舞台に、危険人物の監視を行っていた国家保安省の局員を描いた人間ドラマである。

局員(大佐)は、劇作家とその恋人の反政府活動の証拠をつかむため盗聴活動を命令される。

しかし、(盗聴活動で)劇作家の生き方に触れるにつれて、自らの人間性に目覚め、虚偽の報告書を上司に提出するようになる。

クライマックスは、恋人に裏切られ、窮地に陥った劇作家をこの大佐が密かに助けるシーンだ。

そしてこのことは上司に知れることになり、この局員はは組織人としての人生を終えることになってしまう。 

社会主義体制の暗部とそんな社会の中でも生き続ける良心(善き人)を描いた映画であり、当時の東ドイツの監視社会の真実を初めて公にしたことで評価が高い。(06年アカデミー外国映画賞受賞)

レンタル店でこのDVDを借りてきて観た。確かに秀作である。

ネットで見た映画評には「社会主義→悪、抵抗者→善 そして悪い体制が崩壊してメデタシメデタシ」といった(単純な)評価が多かったが、観終わって少し異なる感想を持った。

社会主義の持つ非人間性は広く知られることとなったが、一方、不自由であってもそれを「良し」とした多くの国民がいて体制が維持されてきたことも事実である。
(ネロやカリギュラ時代のローマ帝国やヒトラーの第3帝国も同じ類である。)
つまり、大衆は一定の生活ができれば体制(全体)の善悪には目をつぶるものである。そしてそこには全体の暴力性に隠され個人の顔は見えてこない。
この映画では、周りの価値観に左右されず個人としての尊厳を持ち続ける崇高な生き方が描かれている。

主人公の大佐を演じたウルリッヒ・ミューエは旧東ドイツ出身で、自身国家から監視された経験を持つという。
淡々と演じているが、事実を知る者のみの持つ悲しみが観るものの心を打つのである。

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Monday, October 01, 2007

美を見つける

毎年この時期、日曜画家たちの展覧会が開かれる。

日展を始めとして各地の県展、市展でその秀作が見られる。

何人もの知り合いが毎年のように出展しているので、市展鑑賞は年中行事になっている。

アマチュアの作品なので、そのレベルはほどほどだが、いつも驚かされるのは、身の回りの(何でもない)風景に美を発見する力だ。

作品を見て、改めてその土地の持っている美しさに気付く。

風景画ではジョン・コンスタンブル(英国)の描く農村風景が好きだ。

コンスタンブルは、それまで宗教をモティーフにした絵が絵画の全てだった時代に、生まれ育った田園に美を見出し、風景画を確立した画家である。

東京と地方と経済格差が社会問題になっている。
資本主義が発展すれば格差は拡大する。
格差は、アメリカやヨーロッパ先進諸国ではすでに20年以上前から 社会問題となっているのである。
その様な先進諸国の中でもイギリスでは、都会から地方へ人口が移動している。
リタイア後は、豊かな自然の中で暮らすことがライフスタイルとなっているからである。
英国に限らず、ヨーロッパの田園風景は限りなく美しい。
この美しさの背景には、コンスタンブルやモリスのようにカントリーライフに価値を再発見した芸術家たちの活動があるという。

ひるがえって日本はどうだろうか。耕作放棄地と乱雑な商業広告だけが目立つ不毛な農村風景。
地方の(経済的)活性化が長年叫ばれているが、そこにはかつて田舎の持っていた風景や伝承文化の破壊が荒廃の原因であるという反省はない。
件の日曜画家たちのように、誰も気に留めないような身近な風景に価値を見出し、そこでの暮らしを大事にすることが21世紀の地方のあり方だと思うのだが。

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