Thursday, November 23, 2006

夢プロジェクト


 正式名称は「かみね公園花園づくり夢プロジェクト」。市内のNPO法人「WITH YOU」が進めている。実体験を通じボランティアを育成する事業で、文部科学省の補助金を得て行っている。

 この話が持ち込まれたのが5月で、かみね公園で行いたいということだった。市報で参加者を募り、40名を越す応募があった。(最終的には20数名に落ち着いた)

 先進事例視察(つくばアーバンガーデニング、水戸市立植物園)→講話(つくば:井口さん、水戸:小野さん)→ワークショップによるプランニング→花壇作り作業と進んだ。そして今日(23日)完成記念野外パーティーとなった。
(詳しい様子は、park.geocities.jp/yumepro/)


 相談に乗ったり、職員を手伝わせたりしたこともあって、私もお招きを受けた。
作業の途中一度様子を見に行っただけなので、久しぶりの現地である。完成したガーデンの感想は、「感心・感動」である。殆ど初対面の市民同士が、よくここまで意見をまとめ、共同で作業を進めることができものである。
そして、企画から建設まで市民参加をコーディネートしたNPO法人の活躍に対しては「感謝」。

 わが市の公園づくりは、7年前から市民参加で進めている。ワークショップでプランを練り上げ、完成後は参加した市民による自主管理を進めている。いくつかの公園をこの方法で作ってきたが、あくまでも市(行政)の事業あった。(参考までに代表例http://www.geocities.jp/akaryoku/


 今回、これまでと異なることは、主催者がNPO法人であることだ。市はバックアップにまわった。そして、これまで行政内部に蓄積されたノウハウやネットワークをNPO法人に提供した。
 
 「花植ボランティア育成」は初めての事業なので、当初、NPO法人にも混乱があった。さりげなく市の職員が手伝うことで、彼らもノウハウを身につけた。何事にも経験である。

 公を担うのは行政だけではない。新たな担い手として市民セクター(NPOやボランティア団体)の役割が求められている。ミッションをしっかり持った市民団体を育てることが大事になっている。

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Saturday, November 18, 2006

永遠に不滅です



こんなに親しまれる恐竜だったら絶滅しなかったろう。
アーティストはここから生まれる
(ラ・ビレット公園の遊具)

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Thursday, November 16, 2006

検証 ○○責任


「検証戦争責任(中央公論)」を読む。
この本は、中国、韓国から噴出した「歴史認識批判」を背景に、読売新聞が05年8月から06年3月まで連載した特集記事を取りまとめ出版したものである。
本書は
1.なぜ満州事変は日中戦争へと拡大していったのか
2.勝算が無いままアメリカとの戦争に踏み切ったのはなぜか
3.玉砕・特攻を生み出したものは何だったのか
4.アメリカによる原爆投下は避けられなかったのか
5・東京裁判で残された問題は何か
の課題認識を基本に戦争責任の所在を「統帥権」「資源」「テロ」など様々な視点から分析している。

1~5の悲劇の主因・誘因には、「軍部暴走を許した政党政治の未熟」「理論的・実証的分析力の欠乏」「精神至上主義」「決断力・統率力の欠落」「自己改革力の欠如」が述べられており、これらに共通する背景に日本特有の『責任の所在が見えなくなる「無責任システム」』があると指摘している。

歴史は繰り返すというが、悲劇の根底にある日本社会(日本人)の本質は、60年経っても変わっていないと改めて感じるのです。

戦時を現在に置き換えれば、さしずめ
1.なぜ角栄的土建屋行政はここまで拡大していったのか。
2.勝算が無いまま赤字国債を発行し続けて行ったのはなぜか。
3.医療・教育の民営化(企業化)を生み出したものは何だったのか。
4.アメリカ金融資本による地域商業共同体破壊は避けられなかったのか。
5.改憲で残された問題は何か。
というところでしょうか(近い将来の悲劇を含めてます)。

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Saturday, November 11, 2006

何を見ている?


見上げてみれば



ガラス張りの巨大建築
高さ110m


グランド・アルシュ(新凱旋門) 
ルーブル美術館から凱旋門までのシャンゼリゼ通りを更に伸ばした都市軸の延長上に作られた。

グランド・アルシュは、パリの新都心ラ・デファンスのシンボル的建物。ここは外国企業の集まる業務地区であり、グラン・アルシュも実は(中空の)オフィスビルなのだ。
ラ・デファンス地区は日本なら横浜MM21や幕張メッセに相当する。しかしMM21や幕張が経済合理性で計画されたのに対しラ・デファンス地区は都市の時間軸の上に構想された。
ルーブル(ブルボン絶対王政)→凱旋門(フランス革命・共和制)→グランド・アルシュ(文化国家・EU)


地区の中心地にオフィスビルとしては決して合理的ではない建築を配置し、その周りにはミロやガルダー、タキスなどのパブリックアートを配している。

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Wednesday, November 08, 2006

履修漏れと立花隆


必修教科を履修していないのに(偽装して)単位を取得させていた問題が全国の高校で発生した。
この問題を苦に2人の校長が自殺するという不幸な事件もおきてしまった。
教育現場では相当前から行われていたことと思われるし、いずれその内容が明らかになるだろう。

この問題の原因は、様々言われているが、本当の理由はやはり大学入試の科目減であろう。
「履修漏れ」を直接指摘したわけではないが、既に10年前にジャーナリスト立花隆が大学入試の変更(受験生にこびた結果の科目減)が日本の知的レベルを下げ、国際競争力を失わせ、やがて国力も衰退することを予言している。

立花の論はこうだ。基本的に彼はリベラルアーツ(一般教養)こそ学問の本道であり、専門教育より上位に位置するという持論を様々な場所で述べている。

最近の大学は医学や工学など実学が重視されている。就職戦線が厳しいさなか(最近は好景気で若干好転して入るが)就職に有利な実学に各大学は力をいれている。その結果一般教養が軽視され、これに関する授業が減っているという。

高校でも先に述べたように受験科目が減った結果、受験に関係ない科目は、必修ですら「やったことにしておこう」という「ズル」がそこいらでまかりとおる。受験校ほど顕著である。

高校・大学とこのような教養軽視が続くとそれこそ「成績は良くても専門バカ」を大量生産している。その事実は東京大学でも目立ち始め立花の著書「東大生はバカになったか(01文芸春秋社)」に著わされている。(立花は以前東大で客員教授をやっていて相当数の東大生を教えていた)

「分数計算の出来ない大学生」は以前話題になったが、これは極端な例として、「生物」を履修してこなかった医学部学生,世界史を知らない法学部学生などは(無事卒業できても)将来社会に貢献するとは思われないと論じている。

東大に限らず、それなりの高等教育機関を卒業したものは、その多くが各分野のリーダーになる存在である。リーダーは様々な場面で判断を求められるし、その結果によっては多くの部下の人生を破綻させることになりかねない。

立花は、リーダーに求める資質を総合力であるとし、総合力の素地は哲学・倫理学・史学などの一般教養であると述べている。専門職として採用されてもその多くが職歴を経てマネージャー(リーダー)に転進するのが日本社会の慣習である。それ故教養軽視の現状とその結果拡大再選産される「専門バカ」集団に憤りを感じ、国の行く末(知的亡国)に危機感を抱いている。

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Sunday, November 05, 2006

サケ遡上

サケが帰ってきた。
「十王川を楽しむ会」から連絡を受けさっそく行ってみた。
懸命に堰を越えようとする姿はいつまで見ていても飽きることはない。
写真上から十王川堰、堰を越えようとするサケ(2)、浅瀬での産卵(?) 



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Friday, November 03, 2006

都市の陰影

出張で仙台に行ってきた。
区画整理組合の役員たちを連れての視察だ。視察先は仙台駅東第二土地区画整理事業。
昭和63年に始まり今でも継続中の事業である。区域面積45ha、事業費約700億円という巨大プロジェクトである。
仙台市は、戦災復興事業で街づくりを進めてきた。駅の西側が街の中心で青葉通りや定禅寺通り、一番町などが賑わいの中心となっている。
一方、駅の東側は戦災を受けなかったので、江戸藩政期の町割のまま、道路も狭い木造密集地が残ってしまった。火災の危険性や交通渋滞の問題を解決するため、仙台市はこのプロジェクトに取り組んだという。


学生時代暮らした町なのでこの地区にも思い出がある。かつては個人商店や一杯飲み屋の連なる下町であった。当時既に人口60万人の大都市だったが、駅裏の人間味ある町並みは、一人暮らしの侘しさを慰めてくれた。(写真は昭和30年代?仙台町並み変遷のサイトから)

この事業には賛否、相当の議論があったという(現在でも続いている)。立ち退かざるを得ない住民はもちろん、古くからの町並みを失うことへの危機感をもつ多くの市民が反対した。

この事業のコンセプトは『「21世紀都市・仙台」を支える高次な都市機能の集積』だという。整備が始まって20年経つ。しかし実態はコンセプトとは異なり、高層マンションが立ち並ぶ無機質な街になってしまった。高次な都市機能とは(役所がよく使う美辞麗句だが)先端企業や国の行政機関、文化施設のことである。そのようなものはどこにも見当たらない。立地したのは「手っ取り早く金になる」マンションである。それも個々の地主やマンション業者の都合で建てられた無計画な建築ばかりである。


都市は人の暮らしの入れ物である。人の生活は多様で奥行きがある。その営みには優劣や善悪や美醜を包み込む舞台が必要である。日本の都市計画の多くは、地域の経済発展とともに進められてきた。経済合理性の前には人生で培われたささやかな価値観は無力である・・・・。長い歴史と住人同士のきずなで醸成されてきた町をはぎ取って造る「21世紀の都市」とは、どんな「まち」になるのだろうか。そんなことを思いながら陰影のない街を歩いた。

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